鶴尾城、刈安城、林廣院城とも言われる。
昨日の丸山砦の説明看板にもあったように、ここは遠藤数盛が築いた城になる。
当時の遠藤氏は、まだまだ篠脇城から東殿山城へ移ってきた東氏の家臣でしかなかった。姻戚関係ではあったようだけど。
ただ、当時はあまりいい関係ではなかったよう。
前にも写真をアップしたように、東殿山の眼下の八幡山に遠藤胤縁が八幡城を築いて対峙しているような感じになっていた。
一方の東氏は常堯が当主であって、彼は粗雑な乱暴者で名が通っていたようで、その彼が遠藤氏の娘を嫁にと言う申し出を胤縁は嫌い娘を違うところへ嫁がせたりしていた。
それを良く思わない常堯は、ある席の帰りに胤縁を暗殺してしまった。それを知り怒った弟の数盛は、鶴尾山城を出て、反東氏勢力をまとめあげて東殿山の常堯を襲い父親を殺害し常堯は内ヶ谷氏を頼って落ち延びたそうな。
典型的な下克上だよね。
その鶴尾山城の元々は住屋であったとされるのが林廣院だとか。
ここの裏山に何かないかんと、こんな道(堀切跡)を登ってみたけど…。
何もなく、道も無くなっていった。
それでもと思い、駐車場脇の道を登っていくと、その中腹に公園のような広場があった。
この広場は、馬止め跡だとか。
そこの奥に説明書きがあった。
そうなんよ、ちょうど鶴尾山の中心を高速道路が走ってて、城跡も何もかもなくなってるんだわ。
このせいだったのかも、林廣院が高速道路建設で猛反対をして、そのごたごたがいやになって、檀家が数十件も離脱したことがあったんだよね。結局最後は、海部元首相だったかが仲介にはいって収めたとか。
その脇にハイキングコースがあった。
歩いてみたけど、最後は高速道路を渡って反対側の山に登るようだったけど、草むらでとっても歩く気にならなかったからそこでやめてしまった。
しかし、人間の都合だけでこういう遺構を簡単に無くしてしまうんだから、ちょっと悲しかったな。
とにかく、この城がこのあたりの中心で、それなりに立派だったってことは想像出来た。
東氏が滅んだあと、ここの城主遠藤数盛が八幡城に入って郡上藩を治めていったらしい。この城には粥川氏が入ったそうな。
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