それはそれとして、猿啄城とはどんな城なんかな。
歴史的には、
享禄三年 (1530年)田原左衛門城主となる。
1547年(天文16年、多治見修理が城を略奪する。
1565年(永禄8年)、織田信長が丹羽長秀を総大将として東美濃攻略を開始。丹羽長秀の先鋒である川尻鎮吉が猿啄城を攻略し、落城。川尻鎮吉が猿啄城城主となり、城名を「勝山城」と改称する。
1575年(天正2年)、川尻鎮吉が岩村城に移り、廃城。
と言うことらしい。
つまり、信長の美濃攻略の時に落城してるとしたら、斉藤方ということだ。
これは城趾の展望台から東を眺めた様子。鳩吹山と木曽川が写ってる。つまり東方の展望は申し分ない。しかし、撮ってないけど西側はいまいちわからない。ここで自論なんだが、この猿啄城へ歩いてきたように、1時間強尾根を伝うと追間城があるんだけど、この城の歴史がはっきりしていないようで。物理的に、その距離で敵対した者の城とは思えない。だから同族の城だったと思われる。歩けばわかるけど、曲輪跡と思われる所はあるにしろ、まったく石摘もないから城と言うか砦にもならない。
ってことは、追間城は単なる物見的な砦だったのかもしれない。確かに、360度見渡せるから、その役目としては大きい。ここより北4キロのところには、安桜山の関城があってこれは道三の系統なんだけど、信長との関係が不安定な所だね。四方見ても、この程度の距離で加治田城やら堂洞城やらあるし。対岸には敵方の犬山城、小牧城があって、信長の進軍拠点となっている。伊木城は見方だからそういうところの監視をしていて、いざとなったら信玄よろしくのろしで伝えてたのかもしれないね。
何せ、このとなりの明王山からは名古屋のツインタワーが見えるし、条件が良ければ長嶋の観覧車も見えるくらいの場所だから、あり得るな。
考えれば考えるほど、面白いね。
16世紀、このあたりは歴史が動いていて表舞台だったのかもしれないな。
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