結局お昼ご飯も食べないで降りてきて。
そして向かう先は、決めてあったのよ。
ここ。
車で5分くらいかな?
それくらい走れば着く先。小寺城(別名池田山城)。
近くの駐車場に車を停めて、向かいます。
入り口脇にはこんな看板が。
春日局のゆかりの地だとか。
彼女って、もともと武芸川とかの家の近くって思いがあったから、思いがけない物に出会った気分だったよ。
そして登っていった、林道を。
山はこれだろうなと検討が付いていたから、それに取りつくにはここを渡らないとダメだなと、素直にここを渡りましたよ。落ちないようにだけ気をつけてね。
渡った先には何も案内もないから、かすかな踏み跡を踏みながら山に取りついてみた。
そして少し登ってみても、こんな風景しか出てこないし。
登ればもちろん登れるし、何も危険でもないんだけど。
とにかくお腹が空いてたから、今日のところはここでやめておいた。
帰って調べても、山頂に平地があるだけのようだから、つまんないしね。
この小寺城とはいかなるものかってことなんだけど。
稲葉家の祖・稲葉塩塵に守護土岐成頼が西美濃の守りを固めるため築城させた。塩塵は四国の名族・河野氏の血を引き、この地に稲葉家を興し、本郷城の国枝氏を凌ぐ勢力を持った。大永5年(1525)牧田合戦に子息通則以下「局」の母「安」の父道明等の一族の多くは、戦死の大打撃を受けた。この時、稲葉一鉄が家督を継ぎ、三代目城主となった。天文3年(1534)一鉄は曽我城へ移ったため、小寺城は廃城となったんだと。
一鉄とは稲葉一鉄。頑固一徹の語源になったくらいの、武将で、美濃三人衆といわれるほどの武将だったようで。道三、信長、秀吉に仕えたようだね。
家康とリンクしてる時もあるようだけど。
稲葉家の六男なんだけど、牧田合戦で親父と兄5人を亡くしたもんだから、出家してたのを現生に戻して小寺城主になったようだね。それからは道三、信長と時流の人に使えてその名をとどろかしたような武将ってことらしくて。それがこんな田舎?に関わってるってことだけでも、ワクワクするよね。
また折りを見てここには出かけるつもりだけど、誰か城趾まで一緒に登ってくれる奇特な人はいないかな?
ただいま募集中!
そして向かう先は、決めてあったのよ。
ここ。
車で5分くらいかな?
それくらい走れば着く先。小寺城(別名池田山城)。
近くの駐車場に車を停めて、向かいます。
入り口脇にはこんな看板が。
春日局のゆかりの地だとか。
彼女って、もともと武芸川とかの家の近くって思いがあったから、思いがけない物に出会った気分だったよ。
そして登っていった、林道を。
山はこれだろうなと検討が付いていたから、それに取りつくにはここを渡らないとダメだなと、素直にここを渡りましたよ。落ちないようにだけ気をつけてね。
渡った先には何も案内もないから、かすかな踏み跡を踏みながら山に取りついてみた。
そして少し登ってみても、こんな風景しか出てこないし。
登ればもちろん登れるし、何も危険でもないんだけど。
とにかくお腹が空いてたから、今日のところはここでやめておいた。
帰って調べても、山頂に平地があるだけのようだから、つまんないしね。
この小寺城とはいかなるものかってことなんだけど。
稲葉家の祖・稲葉塩塵に守護土岐成頼が西美濃の守りを固めるため築城させた。塩塵は四国の名族・河野氏の血を引き、この地に稲葉家を興し、本郷城の国枝氏を凌ぐ勢力を持った。大永5年(1525)牧田合戦に子息通則以下「局」の母「安」の父道明等の一族の多くは、戦死の大打撃を受けた。この時、稲葉一鉄が家督を継ぎ、三代目城主となった。天文3年(1534)一鉄は曽我城へ移ったため、小寺城は廃城となったんだと。
一鉄とは稲葉一鉄。頑固一徹の語源になったくらいの、武将で、美濃三人衆といわれるほどの武将だったようで。道三、信長、秀吉に仕えたようだね。
家康とリンクしてる時もあるようだけど。
稲葉家の六男なんだけど、牧田合戦で親父と兄5人を亡くしたもんだから、出家してたのを現生に戻して小寺城主になったようだね。それからは道三、信長と時流の人に使えてその名をとどろかしたような武将ってことらしくて。それがこんな田舎?に関わってるってことだけでも、ワクワクするよね。
また折りを見てここには出かけるつもりだけど、誰か城趾まで一緒に登ってくれる奇特な人はいないかな?
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