今日は、会社のゴルフコンペ。
で、朝から出かけてて。
あいにく山登りは出来なかったけど、ゴルフ場の斜面をイヤって言うくらい登らせてもらったわ(笑)。
で、3時頃終ったから、私の19番ホールとして、ゴルフ場の麓にある四国香りの山公園に寄って、臘梅の様子を見てきた。
そりゃ盛りは過ぎてるけど、でも、本当に風下にいるといい香りに包まれて、何だか幸せな気分になったわ。
これだけ咲いていてくれるとね、そりゃ香りもするし。
ただ花としてはうつむいてるから、被写体としては面白くないのよ。
でもね、こういうシーンだけは好きなのよ。
青空のブルーに、透明感のある少し赤味の入った黄色が映えるんだよな。
画像を触る人でないと、この黄色に赤が入ってることもわからないだろうけど。
でも、好きなんだよね、私は。
木蓮かな。
これももう少し暖かい日が続いたら咲きそうな感じ。
気温はそこそこなんだけど、やっぱり春は近いようね。
2011/02/26
古城山 2回目
今日は遠征する気も起きなかったから、12月に上った古城山へ出かけた。
まるきり前回と同じルートをたどったから、カメラは使わなかった。
でも。最初かからどこかのオジサンたちのパーティーの後を追うように歩いてたのね。
先に行ってもらうように考えながら歩いたんだけど、それでも最初の東屋で追いついて。
前に見た風景だから面白くも何ともないんだけど、それでも買った双眼鏡で覗いてた。
そして、頂上で休んではったから、私は少し離れたところで、お湯を沸かしてカップラーメンを食べることにした。
前に買ったパーコとストーブでお湯を沸かして。
おいしかったよ、カップラーメンとは言え。
そして下りていったんだけど、こっちの東屋で休んでる時には、なんだかんだと子供たちが登ってきてにぎやかになってたな。
そのまま下りることも出来たけど、今日はちょっと足を伸ばして毛鹿洞池へ寄ってみた。
これは全く知らない所だし。
ここで釣りをするなとの看板もあったけど、何が釣れるんかなと覗いてみたけど、魚はいなかったな。
たしかに泥バエはいたけど、釣りの対象でもないし。
そして、その池畔には、紅梅がキレイに咲いてた。
春だね、季節は間違いなく。
まるきり前回と同じルートをたどったから、カメラは使わなかった。
でも。最初かからどこかのオジサンたちのパーティーの後を追うように歩いてたのね。
先に行ってもらうように考えながら歩いたんだけど、それでも最初の東屋で追いついて。
前に見た風景だから面白くも何ともないんだけど、それでも買った双眼鏡で覗いてた。
そして、頂上で休んではったから、私は少し離れたところで、お湯を沸かしてカップラーメンを食べることにした。
前に買ったパーコとストーブでお湯を沸かして。
おいしかったよ、カップラーメンとは言え。
そして下りていったんだけど、こっちの東屋で休んでる時には、なんだかんだと子供たちが登ってきてにぎやかになってたな。
そのまま下りることも出来たけど、今日はちょっと足を伸ばして毛鹿洞池へ寄ってみた。
これは全く知らない所だし。
ここで釣りをするなとの看板もあったけど、何が釣れるんかなと覗いてみたけど、魚はいなかったな。
たしかに泥バエはいたけど、釣りの対象でもないし。
そして、その池畔には、紅梅がキレイに咲いてた。
春だね、季節は間違いなく。
2011/02/24
清水寺 2
今日も清水寺。
ここってきよみずでら、と読むらしい。
それはいいとして、こんな案内板にが立っていた。
またまた、懐かしい名前が書かれている。
坂上田村麻呂の開基だとか。
でも、その頃から臨済宗ではないわな。
だって、栄西が臨済宗を唱えたのは鎌倉初期。つまり1190年代なんだから。きっと開山当時は密教寺で、後に臨済宗の坊主が引き継いだってことになるんかもな。
この辺は、お友だちで宗教研究家のたつくんに解説を任せようと思う。
そして、お決まりの鐘。
また刻印とかを見てこなかったから、詳細不明。
宿題を残しただけかな、つまりは(笑)。
こんな置物も置かれてて、散策してても楽しかったよ。
お参りも済ませたし、本当にお腹空いたから下りることにした。
途中こんなおじそうさんにも手を合わせて下りていった。
そして、山門の前には趣のある橋が。
渡ったところに、案内板があった。
これだけみてても、いかに由緒あるお寺さんかってことがわかるよね。
しかし、文化財があるにもかかわらず、昨日も書いたようにオープンで。
でも、滝のあたりを見てると、お寺でなくて城にしてもいいような雰囲気があったな。
警備はしやすいと思うもん。
そして山門をくぐってもう一度見てみると、山門の前に花が飾ってあった。
へ〜と思ってよくよく見てみると、ちゃぁんと仏像さんがいてはった。
高澤観音はちゃんと木彫りだったけど、ここのはちょっと違ってた。
右門は、
左門には、
と二天が納められている。
これは、仏法の帰依者を護るという四天王のうち、持国天、増長天の二天を安置してあるそうで、二天門と呼ばれてるそうな。
この人たちに見送られながら、私は車まで戻り家に帰りました。
もう一度ゆっくりと見てみたいお寺さんでした。
おしまい
ここってきよみずでら、と読むらしい。
それはいいとして、こんな案内板にが立っていた。
またまた、懐かしい名前が書かれている。
坂上田村麻呂の開基だとか。
でも、その頃から臨済宗ではないわな。
だって、栄西が臨済宗を唱えたのは鎌倉初期。つまり1190年代なんだから。きっと開山当時は密教寺で、後に臨済宗の坊主が引き継いだってことになるんかもな。
この辺は、お友だちで宗教研究家のたつくんに解説を任せようと思う。
そして、お決まりの鐘。
また刻印とかを見てこなかったから、詳細不明。
宿題を残しただけかな、つまりは(笑)。
こんな置物も置かれてて、散策してても楽しかったよ。
お参りも済ませたし、本当にお腹空いたから下りることにした。
途中こんなおじそうさんにも手を合わせて下りていった。
そして、山門の前には趣のある橋が。
渡ったところに、案内板があった。
これだけみてても、いかに由緒あるお寺さんかってことがわかるよね。
しかし、文化財があるにもかかわらず、昨日も書いたようにオープンで。
でも、滝のあたりを見てると、お寺でなくて城にしてもいいような雰囲気があったな。
警備はしやすいと思うもん。
そして山門をくぐってもう一度見てみると、山門の前に花が飾ってあった。
へ〜と思ってよくよく見てみると、ちゃぁんと仏像さんがいてはった。
高澤観音はちゃんと木彫りだったけど、ここのはちょっと違ってた。
右門は、
増頂天 |
左門には、
持国天 |
と二天が納められている。
これは、仏法の帰依者を護るという四天王のうち、持国天、増長天の二天を安置してあるそうで、二天門と呼ばれてるそうな。
この人たちに見送られながら、私は車まで戻り家に帰りました。
もう一度ゆっくりと見てみたいお寺さんでした。
おしまい
2011/02/23
清水寺
山道を下りて、また舗装されていない林道を下っていった。
水の落ちる音がするから覗いてみると、小さな滝があった。
小さすぎて見えないかもね。
まぁ、滝の写真はあとに回すとして、林道から下りる道があったから下りてみた。
下りた先には、こんな手作りの橋が架けられてた。
間伐材を利用した丸木橋なんだけど、この方が滑らないからいいにしろ、本当は痛むのが早いのになって思ってた。
丸太は皮が残ったままだと、そこに虫が入って穴だらけにするし、皮が水分をおびやすいから腐るもの早いんだわ。
畑の土留めに使うことがあるから知ってるんだけど。
でも、この皮を剥ぐ作業がまた大変で。
下りた先にあったのがこれ。
柱に秋葉様って書かれてたから、ここは神社って思ってしまった。
そして社殿脇に流れ落ちる滝。
いい風景だった。
こういう滝を見ると、無条件でスローシャッターにして止めてみたくなる。
でも、この日は三脚どころか一脚も持ってないしで、手持ちで0.5秒で撮った。
そして、やっぱり裏口からおじゃましたみたいで、その先に本堂があった。
誰もいない状態なんだけど、門戸は完全に開かれており、つい先ほどまで読経をされてたような雰囲気だった。
小さいけど、立派な建物だったよ。
そして、そこに祭られてるのが木造の十一面観音座像だそうで。
たぶん、中央の布の向うに居られるんだろう。
しかし、国重要文化財なのに、なんて不用心なんだろうって思ってしまった。
でもね、この日はたまたま小銭入れをポッケに持ってたし、重要文化財が本尊のようなところだからと、ちゃんとおさい銭を入れて、友だちの病気が良くなるようにお参りしました。
続く
水の落ちる音がするから覗いてみると、小さな滝があった。
小さすぎて見えないかもね。
まぁ、滝の写真はあとに回すとして、林道から下りる道があったから下りてみた。
下りた先には、こんな手作りの橋が架けられてた。
間伐材を利用した丸木橋なんだけど、この方が滑らないからいいにしろ、本当は痛むのが早いのになって思ってた。
丸太は皮が残ったままだと、そこに虫が入って穴だらけにするし、皮が水分をおびやすいから腐るもの早いんだわ。
畑の土留めに使うことがあるから知ってるんだけど。
でも、この皮を剥ぐ作業がまた大変で。
下りた先にあったのがこれ。
柱に秋葉様って書かれてたから、ここは神社って思ってしまった。
そして社殿脇に流れ落ちる滝。
いい風景だった。
こういう滝を見ると、無条件でスローシャッターにして止めてみたくなる。
でも、この日は三脚どころか一脚も持ってないしで、手持ちで0.5秒で撮った。
そして、やっぱり裏口からおじゃましたみたいで、その先に本堂があった。
誰もいない状態なんだけど、門戸は完全に開かれており、つい先ほどまで読経をされてたような雰囲気だった。
小さいけど、立派な建物だったよ。
そして、そこに祭られてるのが木造の十一面観音座像だそうで。
たぶん、中央の布の向うに居られるんだろう。
しかし、国重要文化財なのに、なんて不用心なんだろうって思ってしまった。
でもね、この日はたまたま小銭入れをポッケに持ってたし、重要文化財が本尊のようなところだからと、ちゃんとおさい銭を入れて、友だちの病気が良くなるようにお参りしました。
続く
2011/02/22
加治田城跡
そう言えば、昨日は同じ写真を掲載したようで。
すんませんな、直しておきました。
山頂を後にして、今日載せた写真の分岐点まで下りて、次は加治田城後へ向かったんだわ。
杉林の中の山道を気持ちよく歩きながら。
途中で、近道のプレートがあったけど、どうみても檜林の植林帯を直登するように思えたから本道を登っていった。
迷いそうな所にはタイガーロープで止めてあったり、結構手が加えられてる感じだった。いかに町が、この史跡を大切にしてるかが伺い知れた。
そうして登っていくと、最初のピークに出ると、こんな大岩が目に付いた。
本当に山城で天然の要塞だなって感じた。
この岩の向うは断崖絶壁だったし。
そして、南側の展望がみられた。
まず可児方面。
関の安桜山の時も書いたけど、製紙工場の煙突が見えてるでしょ。土田のあたりね。
そしてね、もう少し西へふってくると、よくわからないんだけど、きっと名古屋駅あたりのツインタワーを含めた高層ビル群が霞の中に浮かんでるのよ。
撮った写真ではよくわからなかったから、ちょっとレベル補正を常識を逸脱するくらいかけて加工してみたら、それが蜃気楼のように浮かんできた。
見てみてよ。
正面の低山の上あたりにあるのが見えるでしょ?
うんうん、いい感じ(笑)。
ここがピークで城跡かと思っていたんだけど、どうやら違うようで。
これに従って、もう5分ほど歩いたのよ。
こんなところもあったから楽しいったりゃありゃしない。
そして、やっと城跡に着いた。
座って休みたかったけど、ベンチすらない。
あったのはこんな案内表示だけ。
何て書いてあるか読めるかしら?
携帯では無理だね。
なんで、最後に載せておくわ。
これをまじまじと読みながら、こんなこと日本史で教えてくれたら、きっと皆が日本史が好きになるだろうなって。
でも、間違っても大学入試には出ないから、無理かな?
そして、ふと芭蕉の句が浮かんで消えた。
『夏草や 強者どもが 夢の跡』
この句は奥州藤原氏と源義経の悲哀をうたった句なんだけど。
でも、この地面にどれだけの血が流れたんだろうって思うだけで、なんか身震いする感じだった。
頂上の広さは、そうね30坪くらいかなと。
だから城っていうより砦だったかもしれないね。
秀吉の一夜城でも、砦だって言われてるから、その時代はってことでね。
そのあたりに、こんな草?が群生していた。
何て名なのか知らないけど。
知ってたら教えて!
地面の葉っぱの上に座って眼下を眺めてたら、お腹空いたなって思えてきて。
12時近くになってるんだから当然かなって思って、汗でシャツが濡れてるから冷えてきたしで下りることにした。
今度は上から下りるだけだから急でもいいかなと、この案内に従って下りてみた。
15分くらいかけてここまで上がってきたんだけど、その半分の時間で下道へ下りることができた。楽ちんだったわ(笑)。
でも、知らない山で不安だったけど、これだけしっかり案内してあれば楽しいよね。
そうして、朝きた道を下りていって、林道の途中から清水寺に裏からおじゃました。
そこでの様子は、明日にでも。
そして、ここからは案内板に書かれていたことね。
*****
加治田城跡
現在 古城山加治田城跡(海抜270m)と呼ばれるこの山城は、戦国時代は却敵城(きゃくてきじょう)とも呼ばれていました。桶狭間の戦いで今川氏を破った織田信長にとって 斉藤龍興が支配する美濃を攻略することは 上洛へ向けての重要な戦略でした。
永禄七年(1564)信長は清洲をたち美濃に近い小牧に本拠地を移しました。信長の侵攻に備え、斉藤方である関城主 長井隼人正道利(はやとのしょうみちとし)を盟主として、堂洞城主の岸勘解由信周(かげゆのぶちか)、加治田城主の佐藤紀伊守忠能(きいのかみただよし)は反信長の盟約を結んでいました。
加治田・堂洞合戦
美濃攻略に向けて犬山城を攻略した信長は、永禄八年(1565)八月木曽川を渡り鵜沼城(大沢基康)、坂祝町にある猿啄城(さるばみじょう・多治見修理)を次々と攻め落とし、いよいよ岸氏が守る堂洞城へと進軍していきました。信長方への投降を断った堂洞城の岸氏に対し、秋も半ばの旧暦八月二十八日午刻(正午)いよいよ攻撃が開始されました。
信長は高畑の恵日山に本陣を置いて関城から岸方へ援軍が来るのを防ぎ、夕田と蜂屋より丹羽長秀らが、そして信長方に寝返った加治田城主佐藤紀伊守の軍勢が北面の加治田から攻め入りました。そして酉刻(午後六時)、ついに堂洞城は落城しました。
加治田城主佐藤紀伊守は反信長の盟約のため人質として娘の八重緑を堂洞城の岸方へ養女に出していましたが、加治田方が信長方に寝返ったのを怒った岸勘解由は、開戦前日に加治田城からよく見える長尾丸山でこの娘を竹槍で刺殺したとされています。
城を枕に義に殉じた岸勘解由と 時勢を洞察して領地を守った佐藤紀伊守。この対照的な先人の行動は、それぞれ価値を持って人の生き方について語りかけます。
佐藤紀伊守は堂洞城陥落後八月二十九日には信長家臣の斉藤新五とともに、関城主長井隼人の反撃を衣丸(現在の加治田字絹丸)で迎え撃ち、翌日には関城も陥落させています。
中濃三城の陥落後、信長の命令により斉藤新五が佐藤紀伊守の養子となり加治田城主を継ぎました。
その後の佐藤紀伊守は永禄十年(1567)に隣の伊深村に隠居して仏門に入り、自らが加治田に建てた龍福寺のために尽くしました。城主を継いだ斉藤新五は信長の家臣として各地の戦闘に参加し、天正十年(1582)本能寺の変で戦死するまで、その一生を信長の天下統一に捧げました。
その後の加治田城は天正十年(1582)の加治田・兼山合戦を斉藤玄蕃を大将としてしのぎましたが、玄蕃の死後に兼山城主森長可(ながよし)の領地となり廃城になったといわれています。
すんませんな、直しておきました。
山頂を後にして、今日載せた写真の分岐点まで下りて、次は加治田城後へ向かったんだわ。
杉林の中の山道を気持ちよく歩きながら。
途中で、近道のプレートがあったけど、どうみても檜林の植林帯を直登するように思えたから本道を登っていった。
迷いそうな所にはタイガーロープで止めてあったり、結構手が加えられてる感じだった。いかに町が、この史跡を大切にしてるかが伺い知れた。
そうして登っていくと、最初のピークに出ると、こんな大岩が目に付いた。
本当に山城で天然の要塞だなって感じた。
この岩の向うは断崖絶壁だったし。
そして、南側の展望がみられた。
まず可児方面。
関の安桜山の時も書いたけど、製紙工場の煙突が見えてるでしょ。土田のあたりね。
そしてね、もう少し西へふってくると、よくわからないんだけど、きっと名古屋駅あたりのツインタワーを含めた高層ビル群が霞の中に浮かんでるのよ。
撮った写真ではよくわからなかったから、ちょっとレベル補正を常識を逸脱するくらいかけて加工してみたら、それが蜃気楼のように浮かんできた。
見てみてよ。
正面の低山の上あたりにあるのが見えるでしょ?
うんうん、いい感じ(笑)。
ここがピークで城跡かと思っていたんだけど、どうやら違うようで。
これに従って、もう5分ほど歩いたのよ。
こんなところもあったから楽しいったりゃありゃしない。
そして、やっと城跡に着いた。
座って休みたかったけど、ベンチすらない。
あったのはこんな案内表示だけ。
何て書いてあるか読めるかしら?
携帯では無理だね。
なんで、最後に載せておくわ。
これをまじまじと読みながら、こんなこと日本史で教えてくれたら、きっと皆が日本史が好きになるだろうなって。
でも、間違っても大学入試には出ないから、無理かな?
そして、ふと芭蕉の句が浮かんで消えた。
『夏草や 強者どもが 夢の跡』
この句は奥州藤原氏と源義経の悲哀をうたった句なんだけど。
でも、この地面にどれだけの血が流れたんだろうって思うだけで、なんか身震いする感じだった。
頂上の広さは、そうね30坪くらいかなと。
だから城っていうより砦だったかもしれないね。
秀吉の一夜城でも、砦だって言われてるから、その時代はってことでね。
そのあたりに、こんな草?が群生していた。
何て名なのか知らないけど。
知ってたら教えて!
地面の葉っぱの上に座って眼下を眺めてたら、お腹空いたなって思えてきて。
12時近くになってるんだから当然かなって思って、汗でシャツが濡れてるから冷えてきたしで下りることにした。
今度は上から下りるだけだから急でもいいかなと、この案内に従って下りてみた。
15分くらいかけてここまで上がってきたんだけど、その半分の時間で下道へ下りることができた。楽ちんだったわ(笑)。
でも、知らない山で不安だったけど、これだけしっかり案内してあれば楽しいよね。
そうして、朝きた道を下りていって、林道の途中から清水寺に裏からおじゃました。
そこでの様子は、明日にでも。
そして、ここからは案内板に書かれていたことね。
*****
加治田城跡
現在 古城山加治田城跡(海抜270m)と呼ばれるこの山城は、戦国時代は却敵城(きゃくてきじょう)とも呼ばれていました。桶狭間の戦いで今川氏を破った織田信長にとって 斉藤龍興が支配する美濃を攻略することは 上洛へ向けての重要な戦略でした。
永禄七年(1564)信長は清洲をたち美濃に近い小牧に本拠地を移しました。信長の侵攻に備え、斉藤方である関城主 長井隼人正道利(はやとのしょうみちとし)を盟主として、堂洞城主の岸勘解由信周(かげゆのぶちか)、加治田城主の佐藤紀伊守忠能(きいのかみただよし)は反信長の盟約を結んでいました。
加治田・堂洞合戦
美濃攻略に向けて犬山城を攻略した信長は、永禄八年(1565)八月木曽川を渡り鵜沼城(大沢基康)、坂祝町にある猿啄城(さるばみじょう・多治見修理)を次々と攻め落とし、いよいよ岸氏が守る堂洞城へと進軍していきました。信長方への投降を断った堂洞城の岸氏に対し、秋も半ばの旧暦八月二十八日午刻(正午)いよいよ攻撃が開始されました。
信長は高畑の恵日山に本陣を置いて関城から岸方へ援軍が来るのを防ぎ、夕田と蜂屋より丹羽長秀らが、そして信長方に寝返った加治田城主佐藤紀伊守の軍勢が北面の加治田から攻め入りました。そして酉刻(午後六時)、ついに堂洞城は落城しました。
加治田城主佐藤紀伊守は反信長の盟約のため人質として娘の八重緑を堂洞城の岸方へ養女に出していましたが、加治田方が信長方に寝返ったのを怒った岸勘解由は、開戦前日に加治田城からよく見える長尾丸山でこの娘を竹槍で刺殺したとされています。
城を枕に義に殉じた岸勘解由と 時勢を洞察して領地を守った佐藤紀伊守。この対照的な先人の行動は、それぞれ価値を持って人の生き方について語りかけます。
佐藤紀伊守は堂洞城陥落後八月二十九日には信長家臣の斉藤新五とともに、関城主長井隼人の反撃を衣丸(現在の加治田字絹丸)で迎え撃ち、翌日には関城も陥落させています。
中濃三城の陥落後、信長の命令により斉藤新五が佐藤紀伊守の養子となり加治田城主を継ぎました。
その後の佐藤紀伊守は永禄十年(1567)に隣の伊深村に隠居して仏門に入り、自らが加治田に建てた龍福寺のために尽くしました。城主を継いだ斉藤新五は信長の家臣として各地の戦闘に参加し、天正十年(1582)本能寺の変で戦死するまで、その一生を信長の天下統一に捧げました。
その後の加治田城は天正十年(1582)の加治田・兼山合戦を斉藤玄蕃を大将としてしのぎましたが、玄蕃の死後に兼山城主森長可(ながよし)の領地となり廃城になったといわれています。
平成十二年十一月 富加町史を一部改変 富加町教育委員会
2011/02/21
梨割山
やっぱり昨日は、ワンコも大変だったのかな。
夕ご飯食べて8時頃から寝始めて、結局朝まで爆睡状態だった。
彼もきっと疲れたんだね。
私の方と言えば、軽度の筋肉痛を味わってる。
そんな大変だった夕方とうって変わって、午前中はとっても楽しい山登りだった。
行った先は、昨日書いた所。
まず公園の駐車場に車を停めると、正面にこんな立派な山門が迎えてくれた。
夕ご飯食べて8時頃から寝始めて、結局朝まで爆睡状態だった。
彼もきっと疲れたんだね。
私の方と言えば、軽度の筋肉痛を味わってる。
そんな大変だった夕方とうって変わって、午前中はとっても楽しい山登りだった。
行った先は、昨日書いた所。
まず公園の駐車場に車を停めると、正面にこんな立派な山門が迎えてくれた。
清水寺。
ここへは帰りにお参りすることとして、その脇道に立つ案内板に沿って登っていった。
その脇に、
なんの石碑なのかわからなかったけど、地元に貢献した方を讃えるものかもね。
まず少しの間だけ舗装された林道を歩き、しばらくすると
未舗装の林道らしい林道になっていった。
ここまで車でくることも出来そうだった。
行き止まりにあったのが、これ。
ここを登りきったところが、どうやら登山道のようで。
まだここまで10分歩いたかどうかだから、私は元気よく階段を登っていったわ。
そして、その先の気持ちのいい登山道を一人歩いていった。
知らない山だから、ちょっと不安ではあったんだけど、踏跡はしっかりしてるし、整備されてるからとても気持ちよかったし。
そして、こんな案内板に従って駐車場から歩くこと30分、やっと頂上へ着いた。
実はこの頂上の直前が急登で、一歩一歩確かめながら歩かないと上がれないくらいで、とっても大変だった。
大変すぎて写真を撮り忘れたし(笑)。
標高としてはたいしたことないよね。
その急登で先へと道を譲ってくれたパーティーがあって、私が頂上へ着いてしばらくすると来られた。
老若男女で、話を盗み聞きする感じでは、子供会とかの役員さんのようで。
次の企画の下見のよう。
この辺に宝探しのくじを隠してとか言ってはったから。
山頂の二等三角点。
文字も見えないくらい古い感じがしたよ。
座るとこもないんで、10分くらい休憩して水分補給して私は加治田場跡へ行くべく登ってきた道を降りていった。
その様子は明日ね。
2011/02/20
危うく…
今日は、まず午前中に前から行こうと決めてた梨割山と加治田城跡へ登ってきて。
山としてはとっても楽しい山だったから満足して戻ってきたんだけど、お昼食べた後に、ジャガイモの床の準備をした。
畑のタマネギは順調に大きくなってきてた。
草が生えてきたから、来週にでも草引きしてあげなきゃ。
もともとはばあちゃんの道具なんだけど、このコマメちゃんで蒔いた肥料を漉き込んで。
30分で完成。
ここに2畝たてれば3キロ程度の種芋は植えられるだろうし。
しばらくこのまま風雨にさらして土を作ってやって。
4時頃終ったから時間が余ったなってことで、ちょっと山歩きをもう少ししたかったから犬の散歩がてら出かけてみた。
いつもの散歩コースから、ゲートの閉まってる高速道路の取り付け道を上がっていくと、川向うに前に登った林道の、落石があったあたりが見えた。
こんな舗装した道路歩いてても面白くないんだけど、山へはここを通らなきゃいけないから仕方なく。
道路の頂上から山道が繋がってるんだけど、早速そこでお猿さんの歓迎を受けた。
山道を歩く私の上を並走するように、しばらく彼らが着いてきてたけど、知らないうちに警戒声も聞こえなくなって、本格的な山歩きになっていった。
数年ぶりにあるく道なんだけど、こんな風に倒木があって所々道がなくなっていた。
こんな倒木は高巻きしたりくぐったりしながら進んでいった。
倒木以外はいい道でね。
ホウ葉が敷き詰められてた。
見覚えのある分岐点に来たんだけど、家のすぐ上に降りていく道がなくなってるんだわ。
ここじゃなかったかなと、そのまま上へ歩いていくと、これまた見覚えのあるお地蔵さんがいてはった。
ちょうどここが美濃市と郡上市の境になるんだけど。
これで安心してそのままピークを目指して家の裏に出る道へと向かっていった。
ところが、その少し先に鉄塔があるのよ。
これは記憶になくて、もっと下に鉄塔は確かにあるんだけど、知らないうちに地主の許可なく建てたのかしらって思いながら正面のピークを目指した。
今思えば、ここで気付いて引き返すべきだったなと。
迷ったら戻るってのが、山歩きの鉄則なんだけど、知ってるからって舐めてかかったのが甘かったわ。
ピークまで行くと、道がないのよ。降りるべき。
これは正直焦ったわ。
仕方がないから、そのまま下へ降りていったんだけど、道が見つからず。
あれ、遭難しちゃったって、一人笑ってたくらいでね。
眼下の長良川の向うには道の駅があるから、場所はしっかりわかってるしで、諦めてそのまま真っすぐ下へ急坂を降りていった。
しかしこれが、とっても大変で。
たいしたことないって思ってるから、いつも裏山に登る時に持っている鉈ものこぎりもないし、雑木がやたらに多くて、犬のリードが絡まったりと散々な思いをして降りていって。
5時のチャイムはとうの昔に聞いたから、あたりはだんだん薄暗くなってくるし、まだまだ高度は高いし。
そんな時に勇気づけられたのが、友だちからのメール。
静かな山の中で浜田省吾の着メロが鳴ると気分も高揚して、すぐに読んで返信して。
世間と繋がってるって思いが、とっても助かったわ。
30分以上真っすぐ下ったかな。そしたら植林した檜林に入っていったから、ホッと安心して。そしたら県道が見えてきて、その県道に降りたのが6時。
気付いたらひたいから汗は拭き出してるし、シャツは濡れてるしで。
県道を早足で歩いて、家に戻って一安心。
早速お風呂いれてもらって、汗を流して着替えたわ。
そのせいかな、なんだか今、筋肉痛の前兆を感じてる。
全身の筋肉が張ってる感じ。
しかし、とにかく子供の時から歩いてる山だから良かったようなものの、知ってるとは言え山を舐めたらあかんってことがよくわかった。
そして、やっぱり迷ったら戻ることが鉄則ってことだよね。
戻ってれば、30分は早く家に着いてただろうし、6時からの大河ドラマも見れたのに。
まぁ、無事だったからよかったわ。
梨割山は、明日にでも。
山としてはとっても楽しい山だったから満足して戻ってきたんだけど、お昼食べた後に、ジャガイモの床の準備をした。
畑のタマネギは順調に大きくなってきてた。
草が生えてきたから、来週にでも草引きしてあげなきゃ。
もともとはばあちゃんの道具なんだけど、このコマメちゃんで蒔いた肥料を漉き込んで。
30分で完成。
ここに2畝たてれば3キロ程度の種芋は植えられるだろうし。
しばらくこのまま風雨にさらして土を作ってやって。
4時頃終ったから時間が余ったなってことで、ちょっと山歩きをもう少ししたかったから犬の散歩がてら出かけてみた。
いつもの散歩コースから、ゲートの閉まってる高速道路の取り付け道を上がっていくと、川向うに前に登った林道の、落石があったあたりが見えた。
こんな舗装した道路歩いてても面白くないんだけど、山へはここを通らなきゃいけないから仕方なく。
道路の頂上から山道が繋がってるんだけど、早速そこでお猿さんの歓迎を受けた。
山道を歩く私の上を並走するように、しばらく彼らが着いてきてたけど、知らないうちに警戒声も聞こえなくなって、本格的な山歩きになっていった。
数年ぶりにあるく道なんだけど、こんな風に倒木があって所々道がなくなっていた。
こんな倒木は高巻きしたりくぐったりしながら進んでいった。
倒木以外はいい道でね。
ホウ葉が敷き詰められてた。
見覚えのある分岐点に来たんだけど、家のすぐ上に降りていく道がなくなってるんだわ。
ここじゃなかったかなと、そのまま上へ歩いていくと、これまた見覚えのあるお地蔵さんがいてはった。
ちょうどここが美濃市と郡上市の境になるんだけど。
これで安心してそのままピークを目指して家の裏に出る道へと向かっていった。
ところが、その少し先に鉄塔があるのよ。
これは記憶になくて、もっと下に鉄塔は確かにあるんだけど、知らないうちに地主の許可なく建てたのかしらって思いながら正面のピークを目指した。
今思えば、ここで気付いて引き返すべきだったなと。
迷ったら戻るってのが、山歩きの鉄則なんだけど、知ってるからって舐めてかかったのが甘かったわ。
ピークまで行くと、道がないのよ。降りるべき。
これは正直焦ったわ。
仕方がないから、そのまま下へ降りていったんだけど、道が見つからず。
あれ、遭難しちゃったって、一人笑ってたくらいでね。
眼下の長良川の向うには道の駅があるから、場所はしっかりわかってるしで、諦めてそのまま真っすぐ下へ急坂を降りていった。
しかしこれが、とっても大変で。
たいしたことないって思ってるから、いつも裏山に登る時に持っている鉈ものこぎりもないし、雑木がやたらに多くて、犬のリードが絡まったりと散々な思いをして降りていって。
5時のチャイムはとうの昔に聞いたから、あたりはだんだん薄暗くなってくるし、まだまだ高度は高いし。
そんな時に勇気づけられたのが、友だちからのメール。
静かな山の中で浜田省吾の着メロが鳴ると気分も高揚して、すぐに読んで返信して。
世間と繋がってるって思いが、とっても助かったわ。
30分以上真っすぐ下ったかな。そしたら植林した檜林に入っていったから、ホッと安心して。そしたら県道が見えてきて、その県道に降りたのが6時。
気付いたらひたいから汗は拭き出してるし、シャツは濡れてるしで。
県道を早足で歩いて、家に戻って一安心。
早速お風呂いれてもらって、汗を流して着替えたわ。
そのせいかな、なんだか今、筋肉痛の前兆を感じてる。
全身の筋肉が張ってる感じ。
しかし、とにかく子供の時から歩いてる山だから良かったようなものの、知ってるとは言え山を舐めたらあかんってことがよくわかった。
そして、やっぱり迷ったら戻ることが鉄則ってことだよね。
戻ってれば、30分は早く家に着いてただろうし、6時からの大河ドラマも見れたのに。
まぁ、無事だったからよかったわ。
梨割山は、明日にでも。
2011/02/19
三輪神社 2
昨日の本殿以外にも、祠がいくつかあった。
何が祀られてるのかが、説明文もないしわからなかった。
つまりそれは、観光客が少ないってことなわけで。
ちょっと離れて全景を。
なかなかの神社だったよ。
そしてここには2本のご神木があった。
下の杉は二抱えはあったわ。
ってことは、直径が1メートルを越えるってことだね。樹齢300年ってとこかな。
神社の西側はこんな風に整備されてた。
なにやら水の公園って感じでね。
まぁ、水に入って遊べるようではなかったけど。
そして、こういうのをみると感動するんだよね、単純な私は。
何かって言うと、
決して手水鉢ではないと思うけど。
こうやって天然石を丸くくり貫くのって、どうやるんだろ?
御影石なら簡単なんだけど。
天然物だとしたら、いったいどこでこんなのがとれるんかなって思うし。
こんな風景を見て満足して家に戻りました。
何が祀られてるのかが、説明文もないしわからなかった。
つまりそれは、観光客が少ないってことなわけで。
ちょっと離れて全景を。
なかなかの神社だったよ。
そしてここには2本のご神木があった。
下の杉は二抱えはあったわ。
ってことは、直径が1メートルを越えるってことだね。樹齢300年ってとこかな。
神社の西側はこんな風に整備されてた。
なにやら水の公園って感じでね。
まぁ、水に入って遊べるようではなかったけど。
そして、こういうのをみると感動するんだよね、単純な私は。
何かって言うと、
決して手水鉢ではないと思うけど。
こうやって天然石を丸くくり貫くのって、どうやるんだろ?
御影石なら簡単なんだけど。
天然物だとしたら、いったいどこでこんなのがとれるんかなって思うし。
こんな風景を見て満足して家に戻りました。
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