2011/02/22

加治田城跡

そう言えば、昨日は同じ写真を掲載したようで。
すんませんな、直しておきました。

山頂を後にして、今日載せた写真の分岐点まで下りて、次は加治田城後へ向かったんだわ。
杉林の中の山道を気持ちよく歩きながら。
途中で、近道のプレートがあったけど、どうみても檜林の植林帯を直登するように思えたから本道を登っていった。
迷いそうな所にはタイガーロープで止めてあったり、結構手が加えられてる感じだった。いかに町が、この史跡を大切にしてるかが伺い知れた。
そうして登っていくと、最初のピークに出ると、こんな大岩が目に付いた。
本当に山城で天然の要塞だなって感じた。
この岩の向うは断崖絶壁だったし。



そして、南側の展望がみられた。
まず可児方面。
関の安桜山の時も書いたけど、製紙工場の煙突が見えてるでしょ。土田のあたりね。




そしてね、もう少し西へふってくると、よくわからないんだけど、きっと名古屋駅あたりのツインタワーを含めた高層ビル群が霞の中に浮かんでるのよ。
撮った写真ではよくわからなかったから、ちょっとレベル補正を常識を逸脱するくらいかけて加工してみたら、それが蜃気楼のように浮かんできた。
見てみてよ。




正面の低山の上あたりにあるのが見えるでしょ?
うんうん、いい感じ(笑)。

ここがピークで城跡かと思っていたんだけど、どうやら違うようで。






 これに従って、もう5分ほど歩いたのよ。
こんなところもあったから楽しいったりゃありゃしない。





そして、やっと城跡に着いた。
座って休みたかったけど、ベンチすらない。
あったのはこんな案内表示だけ。


















何て書いてあるか読めるかしら?
携帯では無理だね。
なんで、最後に載せておくわ。

これをまじまじと読みながら、こんなこと日本史で教えてくれたら、きっと皆が日本史が好きになるだろうなって。
でも、間違っても大学入試には出ないから、無理かな?

そして、ふと芭蕉の句が浮かんで消えた。
『夏草や 強者どもが 夢の跡』
この句は奥州藤原氏と源義経の悲哀をうたった句なんだけど。
でも、この地面にどれだけの血が流れたんだろうって思うだけで、なんか身震いする感じだった。

頂上の広さは、そうね30坪くらいかなと。
だから城っていうより砦だったかもしれないね。
秀吉の一夜城でも、砦だって言われてるから、その時代はってことでね。

そのあたりに、こんな草?が群生していた。
何て名なのか知らないけど。
知ってたら教えて!



















地面の葉っぱの上に座って眼下を眺めてたら、お腹空いたなって思えてきて。
12時近くになってるんだから当然かなって思って、汗でシャツが濡れてるから冷えてきたしで下りることにした。

今度は上から下りるだけだから急でもいいかなと、この案内に従って下りてみた。


















15分くらいかけてここまで上がってきたんだけど、その半分の時間で下道へ下りることができた。楽ちんだったわ(笑)。
でも、知らない山で不安だったけど、これだけしっかり案内してあれば楽しいよね。


そうして、朝きた道を下りていって、林道の途中から清水寺に裏からおじゃました。

そこでの様子は、明日にでも。

そして、ここからは案内板に書かれていたことね。

*****


加治田城跡
現在 古城山加治田城跡(海抜270m)と呼ばれるこの山城は、戦国時代は却敵城(きゃくてきじょう)とも呼ばれていました。桶狭間の戦いで今川氏を破った織田信長にとって 斉藤龍興が支配する美濃を攻略することは 上洛へ向けての重要な戦略でした。
永禄七年(1564)信長は清洲をたち美濃に近い小牧に本拠地を移しました。信長の侵攻に備え、斉藤方である関城主 長井隼人正道利(はやとのしょうみちとし)を盟主として、堂洞城主の岸勘解由信周(かげゆのぶちか)、加治田城主の佐藤紀伊守忠能(きいのかみただよし)は反信長の盟約を結んでいました。

加治田・堂洞合戦
美濃攻略に向けて犬山城を攻略した信長は、永禄八年(1565)八月木曽川を渡り鵜沼城(大沢基康)、坂祝町にある猿啄城(さるばみじょう・多治見修理)を次々と攻め落とし、いよいよ岸氏が守る堂洞城へと進軍していきました。信長方への投降を断った堂洞城の岸氏に対し、秋も半ばの旧暦八月二十八日午刻(正午)いよいよ攻撃が開始されました。
信長は高畑の恵日山に本陣を置いて関城から岸方へ援軍が来るのを防ぎ、夕田と蜂屋より丹羽長秀らが、そして信長方に寝返った加治田城主佐藤紀伊守の軍勢が北面の加治田から攻め入りました。そして酉刻(午後六時)、ついに堂洞城は落城しました。

加治田城主佐藤紀伊守は反信長の盟約のため人質として娘の八重緑を堂洞城の岸方へ養女に出していましたが、加治田方が信長方に寝返ったのを怒った岸勘解由は、開戦前日に加治田城からよく見える長尾丸山でこの娘を竹槍で刺殺したとされています。

城を枕に義に殉じた岸勘解由と 時勢を洞察して領地を守った佐藤紀伊守。この対照的な先人の行動は、それぞれ価値を持って人の生き方について語りかけます。

佐藤紀伊守は堂洞城陥落後八月二十九日には信長家臣の斉藤新五とともに、関城主長井隼人の反撃を衣丸(現在の加治田字絹丸)で迎え撃ち、翌日には関城も陥落させています。
中濃三城の陥落後、信長の命令により斉藤新五が佐藤紀伊守の養子となり加治田城主を継ぎました。
その後の佐藤紀伊守は永禄十年(1567)に隣の伊深村に隠居して仏門に入り、自らが加治田に建てた龍福寺のために尽くしました。城主を継いだ斉藤新五は信長の家臣として各地の戦闘に参加し、天正十年(1582)本能寺の変で戦死するまで、その一生を信長の天下統一に捧げました。
その後の加治田城は天正十年(1582)の加治田・兼山合戦を斉藤玄蕃を大将としてしのぎましたが、玄蕃の死後に兼山城主森長可(ながよし)の領地となり廃城になったといわれています。

平成十二年十一月 富加町史を一部改変 富加町教育委員会

2 件のコメント:

  1. 一刀斎2月 22, 2011

    やっぱり面白かった。

    オラもこの時代の日本史は大好きだったから、興味津々だったし。。。

    城跡って、面白いよね。

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  2. そうなんだよね。
    ここと言い、安桜城(関城)といい、この時代にこのあたりが歴史の表舞台に出てるなんてこの山のこと調べるまで知らなかったし。
    そう考えるだけで、足取りも軽く登れたのかもしれない。
    楽しかったわ、ホントに。

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