2014/08/23

大跡部王子陵

クリニックに行って会社へ行って状況確認。
まずまず問題なしってことで、午前中で切り上げて。
ラーメン食べて家に戻ってきた。
途中の武芸川の道の駅あたりで、ここに古墳があったはずと思い山に向かって行った。
ぐんぐん田の中を走ると、まっすぐ行っても道が無くなりそうだったので右折して。突き当たりの林道から戻ろうと思って進むと、看板が。何やろって思って止めて見ると、大跡部王子陵とある。



見るとこんもり盛り上がって古墳のようだから登ってみた。
でもね、入り口はこんな感じで、荒れていた。


多少は盛り上がって見えるから古墳とは理解出来るかな、ってとこか。
上がってみようと足を進めると、もう蚊の猛攻撃にあった。
でも、上がると、


こんな碑がポツンとあるだけ。
嘉永5年の建立らしいから???

調べると大跡部王子とは、第25代武烈天皇の子ということだから、古墳時代ってことになって年代が合わない。権力争いを嫌って都からこの地へ逃れて来た王子ってことらしくて、それがどうして後日祀られるんだろうか?
この辺はたつくんの解説を待つかな(ゴメンな)。

ま、どっちにしても、この辺りは古墳が多いようだし、武芸川の権現山の麓には違う古墳があったし(以前に書いてる)、この武芸川って地は、このあたりの中心だったのかもしれないね。
何れまた、うろついてみるね。

3 件のコメント:

  1. 跡部王子の古墳、まだ行ったことないのよ。
    気になってたんだけど、  姉が跡部に居るので、恵利寺辺りまでは行くのですが、・・・

    確かに、武芸川地域は、古代美濃国の中心に近い場所だったのだと思うよ。
    古代、身毛氏の本拠は、武儀川流域だと思うので、武芸川地域に史跡が多く残っていても不思議ではないよね。

    それに、禅寺が多いのにも驚きます。

     たつくん

    返信削除
  2. そうなんだ。
    禅宗と真宗との境は美並だね。八幡までいくと真宗だから。だから慈恩寺という臨済宗の寺が立派なのが不思議でね。
    保護した東氏の時代は一向一揆とかが盛んだったからそうなるのかしら?
    もしかしたら、その後の金森氏が入れたのかもしれないよね。
    わからないけど。
    不思議だね、歴史って。

    返信削除
  3. 八幡の慈恩寺は、洞戸梅泉寺住職の隠山の弟子 當林が開いているので、臨済宗に属しているのだと思う。  当時、洞戸と郡上との交流は現代以上に緊密だったようですよ。

    ちなみに、隠山和尚の法系は、現在の臨済禅寺のほぼ半数を占めていて、それは全国に広がっています。 
    関の梅龍寺、岐阜の瑞龍寺、京都天竜寺なんかもそうです。
    八幡慈恩寺は、郡上での臨済禅の拠点なのでしょうね。

     たつくん

    返信削除