そんな九十九折りの急登していくと、険しい直登が待ちかまえてた。
でも、要所要所には、ちゃんとロープが張ってあって、一部それを使いながらよじ登っていった。
ね、結構急峻でしょ?
そこをやり過ごすと、ちょっとした平地になった。
もしかしたら、ここは曲輪跡かもしれない。
石垣もないけど、上の写真が示すように地形がその役を果たしてるかも知れない。
そこを越して下っていくと。
このまま坂を上がっていくと、やっと城趾についた。
どうして城名が二つ掲げられてるのか、今一理解出来てないんだけど、たぶん東殿山城でいいはず。赤谷山城は、もう少し西にあったんじゃないかな。もともとは。
記録によると、東殿山が落城した時に、兵士が北側の崖から落ちて亡くなって。
そこを地獄谷と呼んだようで。
立ち入り禁止のロープをまたいで撮った写真だけど、確かにこの先は崖のような感じだったし、近寄れなかったもん。
ちょっと東殿山城の歴史を書いておくね。
承久2年(1220)に千葉氏の一族、東(とう)中務入道胤行がこの地の地頭となり、下総国(現在の千葉県)から移ってきて、「畔(あぜ)千葉城(郡上市大和町剣)」を築きました。城跡は郡上八幡から長良川沿いに10kmほど上流にあります。
南北朝時代になって、東(とう)氏村が篠脇城(郡上市大和町牧)を築いて移り、応永16年(1409)に7代目東(とう)益之が赤谷山城を築きました。現在の八幡山城吉田川を挟んで南方に相対する山です。
天文年間(1532~54)、13代常慶は東殿山城(八幡町旭)を築きました。
永禄2年(1559)に東氏と支族遠藤氏の間が不和になり、常慶の子東常堯が遠藤胤縁を殺すと言う事がありました。これに怒った胤縁の弟盛数は、兵を集めて常慶の東殿山城を攻撃し、激戦の末落城させました。ここに東氏は23代、340年で滅亡しました。
でも、要所要所には、ちゃんとロープが張ってあって、一部それを使いながらよじ登っていった。
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ね、結構急峻でしょ?
そこをやり過ごすと、ちょっとした平地になった。
もしかしたら、ここは曲輪跡かもしれない。
石垣もないけど、上の写真が示すように地形がその役を果たしてるかも知れない。
そこを越して下っていくと。
このまま坂を上がっていくと、やっと城趾についた。
どうして城名が二つ掲げられてるのか、今一理解出来てないんだけど、たぶん東殿山城でいいはず。赤谷山城は、もう少し西にあったんじゃないかな。もともとは。
記録によると、東殿山が落城した時に、兵士が北側の崖から落ちて亡くなって。
そこを地獄谷と呼んだようで。
立ち入り禁止のロープをまたいで撮った写真だけど、確かにこの先は崖のような感じだったし、近寄れなかったもん。
ちょっと東殿山城の歴史を書いておくね。
承久2年(1220)に千葉氏の一族、東(とう)中務入道胤行がこの地の地頭となり、下総国(現在の千葉県)から移ってきて、「畔(あぜ)千葉城(郡上市大和町剣)」を築きました。城跡は郡上八幡から長良川沿いに10kmほど上流にあります。
南北朝時代になって、東(とう)氏村が篠脇城(郡上市大和町牧)を築いて移り、応永16年(1409)に7代目東(とう)益之が赤谷山城を築きました。現在の八幡山城吉田川を挟んで南方に相対する山です。
天文年間(1532~54)、13代常慶は東殿山城(八幡町旭)を築きました。
永禄2年(1559)に東氏と支族遠藤氏の間が不和になり、常慶の子東常堯が遠藤胤縁を殺すと言う事がありました。これに怒った胤縁の弟盛数は、兵を集めて常慶の東殿山城を攻撃し、激戦の末落城させました。ここに東氏は23代、340年で滅亡しました。