そう、この神社は、城跡に建っている。もともと、この山に興味があったから地図を見てたりして、城趾があるのは知っていた。だから、この偶然に感謝したよ。
長山城:土岐一族の長山氏の城、または城田寺城の戦いで自害した土岐元頼(長山四郎)の居城といわれているらしい。
土岐元頼とは、ウィキによると、戦国時代の武将。美濃守護土岐成頼の4男。母は側室。政房、定頼の弟。通称は四郎。美濃長山城城主。子に頼連。
父の成頼には長男政房がいたが、成頼は庶子である元頼を溺愛し、政房の廃嫡を考えるようになり、成頼によって元頼は守護代の斎藤利藤、小守護代の石丸利光らに擁立され、兄の政房も斎藤妙純の支持を受けたことにより両者は対立、明応3年(1494年)に家督争いが起こった(船田合戦)。
明応4年(1495年)6月、利光らと共に政房方と戦うが、敗れたため利光と共に近江へと逃れた。同年9月、父は隠居を余儀なくされ、家督と守護職を政房に譲る。しかし、その後も元頼は抵抗を続け、明応5年(1496年)5月に美濃に下国、隠居していた父の居城・城田寺城に籠城して再起を図るが、妙純の軍勢に包囲され、5月30日、利光は成頼らの助命を条件に切腹した。しかし、父は城田寺城から出たが元頼は許されず、止むを得ず自刃した。
というように、非運の武将だね。
土岐氏と言えば岐阜では有名な武家だし、守護職を務めた家柄じゃなかったかな?
元々は東濃が地盤だけど、岐阜まで進出してきてたってことだね。彼が活躍?したのは15世紀末、つまり室町時代か。
この先のリフレ芥見方面に降りると遺構が見れるらしいんだけど、ここで満足した私は、引き返した。今度来た時にここから降りてみるよ。
でもね、山としては岩山で斜面も急だし、なかなか攻め辛いところに建ってたと言えるな。平地は少ないから大きな城ではなかっただろうけど、下には井戸の後もあるようだから、ろう城も出来そうだし。
でも、結局は岩山だから基礎もママならず見捨てられたってことで(廃城だから)、価値がなかったのかな??
これを見れただけで、迷った甲斐があったってことで、私は意気揚々と来た道を戻ったんだよね。
これがあるから、低山が止められないんだよな…。
長山城:土岐一族の長山氏の城、または城田寺城の戦いで自害した土岐元頼(長山四郎)の居城といわれているらしい。
土岐元頼とは、ウィキによると、戦国時代の武将。美濃守護土岐成頼の4男。母は側室。政房、定頼の弟。通称は四郎。美濃長山城城主。子に頼連。
父の成頼には長男政房がいたが、成頼は庶子である元頼を溺愛し、政房の廃嫡を考えるようになり、成頼によって元頼は守護代の斎藤利藤、小守護代の石丸利光らに擁立され、兄の政房も斎藤妙純の支持を受けたことにより両者は対立、明応3年(1494年)に家督争いが起こった(船田合戦)。
明応4年(1495年)6月、利光らと共に政房方と戦うが、敗れたため利光と共に近江へと逃れた。同年9月、父は隠居を余儀なくされ、家督と守護職を政房に譲る。しかし、その後も元頼は抵抗を続け、明応5年(1496年)5月に美濃に下国、隠居していた父の居城・城田寺城に籠城して再起を図るが、妙純の軍勢に包囲され、5月30日、利光は成頼らの助命を条件に切腹した。しかし、父は城田寺城から出たが元頼は許されず、止むを得ず自刃した。
というように、非運の武将だね。
土岐氏と言えば岐阜では有名な武家だし、守護職を務めた家柄じゃなかったかな?
元々は東濃が地盤だけど、岐阜まで進出してきてたってことだね。彼が活躍?したのは15世紀末、つまり室町時代か。
この先のリフレ芥見方面に降りると遺構が見れるらしいんだけど、ここで満足した私は、引き返した。今度来た時にここから降りてみるよ。
でもね、山としては岩山で斜面も急だし、なかなか攻め辛いところに建ってたと言えるな。平地は少ないから大きな城ではなかっただろうけど、下には井戸の後もあるようだから、ろう城も出来そうだし。
でも、結局は岩山だから基礎もママならず見捨てられたってことで(廃城だから)、価値がなかったのかな??
これを見れただけで、迷った甲斐があったってことで、私は意気揚々と来た道を戻ったんだよね。
これがあるから、低山が止められないんだよな…。