2014/06/30

古城山

中間地点で展望を見てそのまま進みます。
気分的にはタイムトライアル。同行したかみさんは、先に行ってと言うし、ならばと進みます。

いったんコルに下り再び登ります。その先は整備された階段で、何度歩いても好きになれません。

そして山頂下の平坦地に着きます。



上、下とも同じ位置からのもの。
このコースは城出言えば搦手側、つまり裏口だからか案内はないんだけど、ここも曲輪跡だと思うよ。だから段差がちゃんとあるもんな。さしずめ段の上には門があるんだろうし。

そして山頂に着き一休みです。登山口の弓道場から40分かかってます。
ちょっとショックだったね。このコースは33分で2度歩いてるので、リュックが普段の登山用の重さだったとは言え、ダメだね。夏山の高山に向けてのトレーニングなんだけど、歩けなくはないけど、って感じだね。

この山頂知っての通り、鉈尾山城趾と言われてる。
前にも書いたと思うけど、鉈尾山城について少し残しておくね。
何れにしろ、こんな田舎でも、織田やら豊臣やらが暗躍してたってことだね。

鉈尾山城とは、佐藤清信が建てた山城。古城山を遠くから見るとわかるんだけど、岩が山頂近くに露出していてそれだけでも堅固な城だったのがわかるね。城と言っても砦的な要素が強くて、居住は六反(ろくたん)といい佐藤氏の旧城下町と下館があったようです。上有知と中有知の間に位置して(現在の美濃病院のあたりだと思う)おり、それが伺える。ここで佐藤氏は三代続くことになる。初代清信は時の守護斎藤氏に仕えていたが、二代目の秀方は信長に仕えていたようで、嫁が金森長近の姉ということから、本能寺の変の後秀吉に仕えることにもなる。そして三代目が方政。秀吉に仕えていたものの何故か関ヶ原の合戦では(三成の調略を受け)三成方に属している。関ヶ原の前哨戦である「米野の戦い」に参戦したが負けたため自城に戻り鉈尾山城に火を点け逃亡したという説もある。または米野の戦に破れ織田信秀と共に岐阜城に逃げたが、東軍の岐阜城攻めの際に百曲り口で防戦していたが、降参して金森長近軍に下っています。この辺はごちゃごちゃではあるんだけど、一説には母の里の西方美濃石津乙坂村(今の安八町か?)に隠れていて大阪の役に豊臣方として参戦して討ち死にしたとされています。そして、一族が逃げ高澤観音のあたりで討ち取られ佐藤氏は滅亡し(だから高澤観音に佐藤氏の墓があるわけで)代わりに長近が美濃を治めた。美濃市にある清泰寺は金森家の菩提寺なのだが、佐藤氏の墓も現存しているとか。
長近は、佐藤氏の菩提寺だった以安寺を廃寺として新たに、ここを金森氏の菩提寺と定め小倉山城の隣に建立した。そのため清泰寺は、金森氏と佐藤氏の菩提寺でもあるようで、それぞれの墓が今も残っている。
一度見てこなきゃね。



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