2016/09/30

めったに見れないよな

今は見れないね。僕らの頃は小学校には決まってあったよ。


本来はもっと目立つ所にあったんだろうけど、時代が変わって脇役になってしまったのかな?

二宮尊徳(金次郎)

道徳の教科書に出てきてたかな?


江戸後期の実践的農政家「二宮尊徳(幼名:金次郎/生没1787-1856)」は、父を14歳で母を16歳で亡くし、伯父の家で苦しい農耕をしながら「論語」「大学」「中庸」等を独自に学び、青年期に家を再興。後に小田原藩士服部家の再建や藩領下野桜町などの荒廃の復旧に成功し、この経験を元に独特の農法・農村改良策(報徳仕法)によって小田原・烏山・下館・相馬藩等の凡そ600村を復興。農村の生産力に応じた分度を定め勤倹を説き、その結果としての富を推譲(譲り合う)という社会的行為に導く報徳思想を広め、尊徳没後も多くの優れた門人によって、幕末から明治前期にかけて各地に報徳社運動を進め、農村の振興に貢献。明治10年代には政府よって注目され、門人の手による「報徳記(富田高慶)」「二宮翁夜話(福住正兄)」は相次いで天覧に供され、尊徳が政治体制を変化させずに農民の勤勉と倹約によって荒廃した農村を立て直した人物として理解され1889(明治22)年に従四位を追贈されました。


 教育の場では、1900(明治33)年の検定教科書「修身教典」に尊徳が登場し、1904(明治37)年から使用された最初の国定教科書「尋常小学修身書」では孝行・勤勉・学問・自営という4つの徳目を代表する人物として描かれ、また唱歌では1902(明治35)年の幼年唱歌に現れ、1911(明治44)年の尋常小学唱歌には「柴刈り縄ない草鞋をつくり、親の手を助け弟を世話し、兄弟仲良く孝行つくす、手本は二宮金次郎」と歌われたそうです。

っていうくらい立派な人でね、僕の通った小学校にもあったよ。
だから、小さい頃からこの像を見て、僕は薪を背負って歩きたくないし、ましてやそれで本なんて読みたくないって思ったのかもな。だから今の自分があるんだね。だから、この像がなかったら私の人生は変わっていたかもしれないな…。

それはないな、努力が出来ない人だから…(笑)。

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