焼岳の壮大な姿を見た後、そのまま登山道を歩いていって。
ところどころにある展望台からは、北アルプスの山々が垣間見られていった。
そうして高度を稼いでいくと、ちょっと開けた場所に出た。
憮然平。
そこには、こんなシーンが用意されていた。
これ、お地蔵さんでなくて石像。
えっと、篠原憮然という社会学者を祀ったものだそうで。
この平らな部分に庵を建てていたんだそうな。
この人の経歴を少し。
ところどころにある展望台からは、北アルプスの山々が垣間見られていった。
そうして高度を稼いでいくと、ちょっと開けた場所に出た。
憮然平。
そこには、こんなシーンが用意されていた。
これ、お地蔵さんでなくて石像。
えっと、篠原憮然という社会学者を祀ったものだそうで。
この平らな部分に庵を建てていたんだそうな。
この人の経歴を少し。
篠原憮然とは飛騨の山を愛した社会教育者「篠原憮然(しのはらぶぜん・明治22年~大正13年)」のことです。 代用教員として従事するかたわら青年会を組織するなど、全国を講演行脚し社会教育活動を精力的に実践。やがて、世の中に失望し「人界に師なし」として深山に修養の場を求め、大正3年に飛騨に入山。
その庵がここにあったんだろうね。
そして、
大正12年、無然に師事していた若い工女が大八賀川で投身自殺をした。無然の子を身ごもったためとの噂が流れた。
平湯の人たちは誰一人としてそれを信じる人はいなかったが、格好の話題と地方紙は取り上げ、人から人へと噂は増幅されて広がっていった。
彼は故無き作り話に言い訳や反論することなく、やがて飛騨を去っていった。
その後、東京や大阪で社会活動を続けていたが、心のふるさと飛騨への思いが募り、もう一度皆の待つ飛騨へ帰ろうと決心した。
大正13年11月14日、無然は松本から平湯へ向かう事を決め、前日泊まった白骨温泉を小雪が舞う中、安房峠を目指して出発した。
途中で天気が急変して、激しく降り続く雪の中を腰まで埋まりながら歩き続けたが、安房峠を越す頃には、目が開けられぬほどの猛吹雪となり、辺りは闇に包まれていった。
疲労困憊し、朦朧とした意識の中で平湯の灯りを目にしてホッとしたのか、彼はそのまま深い眠りに落ちてしまった。
大正13年11月15日、志半ばで無然は36年の生涯を吹雪の安房峠で閉じた。
そんな地域に貢献した人を祈念してここに個人が石像を置いて祀ってるんだそうで。
雪のない状態だとこんなふうだそうで。
いかに雪深いかわかるでしょ?
そこを後にして、最後の展望台からは、御岳山も見えたよ。
そして、北アルプスがこんな風に見え出してきた。
いいね、これ。
山頂からはもっといい風景が見れたから。
それは明日ね(笑)。
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