2018/05/18

国見岳 最後

禿山で昼食をとって、そのまま下山。
帰りも目的の花を探したんだけど、なかったな。
今年は花が早いから期待してたんだけど。
失意のまま下山すると、また来なきゃいけないから、前に寄らなかった教如上人の岩屋へ寄り道。

途中踏み後が薄い所があったけど、なんとか到着。

岩屋の奥には祠があっただけだったな。


教如上人とは、
永禄元年9月16日(1558年10月27日[2])、顕如の長男として誕生。永禄13年(1570年)2月、父・顕如のもと13歳で得度。
元亀元年9月12日(1570年10月11日)、織田信長との間で石山合戦が始まる。父・顕如を助けて信長と徹底抗戦する。元亀2年(1571年)6月、朝倉義景の娘である三位殿と婚約。
天正8年(1580年)3月、顕如は正親町天皇の勅使・近衛前久の仲介による講和を受け入れ、石山本願寺から紀伊国鷺森(和歌山県和歌山市)へ退去する。しかし教如は徹底抗戦を主張する。そのため顕如は、教如を義絶[7]する。その後も教如は石山本願寺に籠城する(大坂拘様)が、8月2日、近衛前久の説得に応じ、信長に石山本願寺を明け渡す[8]。 その直後に、石山本願寺は失火により炎上し灰燼に帰した。

と言うように、親鸞上人の浄土真宗が西と東に別れる事になった張本人。
関ヶ原の前に三成に止められたにも係わらず東国へ出向き、追われる身になっていて、美濃まで戻った時にどうしようもなく安八の住民に助けられ、この岩屋に身を隠していたそうな。ちょうどその頃関ヶ原で破れた追う立場の三成は反対側の洞穴に逃げ隠れていたという、まさに背中合わせの運命をたどったようで。


これをみて、少し予定より遅れたけど無事下山した。
そう言えば、国見峠に着いたとたんに、車のナビが「滋賀県に入りました」って言ってたわ。
この日の山行は岐阜と滋賀の県境尾根を歩いた事になるね。


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